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48. 普遍的な価値

 山歩きにカメラを持参するようになったのは4年前からです。それまでは、重いカメラを持ち歩きたくない、というのが本心なのですが、山の感動は自分の脳裏というフィルムに焼きつけているから、とうそぶいていました。ところが、60歳を過ぎたころから、まさに、寄る年波には勝てない、ということなのでしょうか、脳裏に焼きついたはずの記憶がきれいさっぱり消えてしまっていることに気づき、脳みそではなく写真に残すことにしたのです。

 できるだけ軽くて小さなものをと考えて、ズーム機能のついたデジタルカメラを買いました。撮り始めてみると、これが予想以上に面白い。帰路の車中で、撮った写真を見返すと、シャッタを押したときの思いがよみがえってきて、「二度目の感動」を味わうことができます。

 カメラで撮った写真は、その日のうちに自宅のパソコンに移します。それなりの数の写真がパソコンにたまったころ、「三度目の感動」を期待して写真を見返してみました。すると、どうしたことでしょうか、撮影直後に見返した時の「感動」はいっこうに湧きおこらず、それどころか、どの写真もどの写真も同じようなものばかりで、実につまらない。がっかりです。写真を始めたばかりの素人ですが、それにしても、ひどい。しかし、落ち込んでいても仕方ないので、何が起きているのだろう、と少し冷静になってみることにしました。

 すぐに分かったことは、真正面から撮った写真ばかりだ、ということ。これは合点がいきます。「おーっ、これはすごい」と思った次の瞬間に、カメラを構えて、すぐにシャッタを押しますので、突っ立たままの状態で、地面近くの花を見下ろして撮ってしまいます。そのため、どれも同じような写真(いや、同じ写真)になってしまうのでしょう。それから、撮りたい花が写真のど真ん中に大きく写った、いわゆる「日の丸写真」ばかりです。これも、撮りたいものをできるだけ大きく撮りたいという思いだけがはたらけば、当然の結果と言えるでしょう。

 シャッタを押したときの気持ちが記憶に残っている間に写真を見ると、脳裏というフィルムに焼きついている感動も呼び起こされるので、ありふれた構図の同じような写真であっても「二度目の感動」を覚えるのでしょう。しかし、時間が経ってきれいさっぱり脳裏から記憶が消えてしまうと、感動と紐づいていない同じ写真を何枚も何枚も見せられることになるので、ウンザリしてしまうのは当然かもしれません(=「三度目の感動」は起こらない)。

 不意に花に出くわした時、反射的にシャッタを押してしまうことはあります。しかし、それで良しとはせずに、腰をかがめて花に顔を近づけます。あちらこちらから注意深く見てみると、立ったまま見下ろす様子とは全く違う姿を見せてくれることがあります。冷静によく観察して、あれこれと考えて、その花が一番よく見える姿が見つかったら、即、パチリ。そういう写真は、冷静な熟考というフィルタを通して発見した普遍的な美しさを切り取ったものなので、写真を撮った本人にとって感動の紐づけがなくなった後でも、あるいは、花が咲いている現場にいなかった人に対してさえも、感動を、いうなれば「三度目の感動」を与えてくれるのではないでしょうか。

 少し大げさな言い方になりますが、感動したら次に冷静に見直すこと。そうすると、普遍的な良いものが見つかることがある、ということでしょうか。仕事でも似たようなことがありますね。これは良いことを思いついた、と感動を伴う発見(または、発明)をしたら、少し間をおき、冷静になって、見つけたものを見直してみる。すると、単なる思いつきではない普遍的な価値が見えてくるかもしれません。

  次の3枚の写真は、福寿草の一種で秩父紅(ちちぶべに)と呼ぶそうです。私なりに考えて撮ってみました。写真をご覧の皆さんに、少しだけ感動が伝われば、うれしいです。






(社長)