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「大学入学共通テスト(仮称)」モデル問題例への当社コメント

2017年5月16日付で、文部科学省より「高大接続改革の進捗状況について」が公表され、あわせて独立行政法人大学入試センターより「大学入学共通テスト(仮称)」記述式問題のモデル問題例(以下、モデル問題例)が公表されました。

(外部リンク)文部科学省:高大接続改革の進捗状況について(平成29年5月16日)

(外部リンク)独立行政法人大学入試センター:大学入学共通テスト(仮称)について

今回の公表は、今後の大学入試、さらには日本におけるテストそのものを大きく左右する可能性があります。テストに特化した事業や研究に取り組んでいる当社として、このような公表資料の調査研究も重要なミッションと考えております。

この度、当社としてモデル問題例に対するコメントを発表申し上げます。ご一読いただければ幸いです。

※7月7日現在、国語と数学について掲載しております。英語については後日追加掲載し、あわせて野口裕之ARFのコメントも掲載する予定です。

 

国語

このたび新たに国語の記述式問題の問題例が公表されたが、今回の問題例を見て、いったいこれが「国語」の問題かと目を疑った人もいたかもしれない。しかし、これは近年の学力調査テストやPISA型の問題を意識した出題であり、まさに新タイプの問題である。その特徴は、複数の資料・文書・図から必要な情報を読み取り、設問文の条件を満たす解答作成能力を測る点にあるといっていいだろう。

今回、二つのサンプル問題が提示されているが、〈例1〉では、市が作成した景観保護に関するガイドラインをめぐる親子の会話から読み取れる意見の対立点(問3)や、そのうちの一方の考えに賛成の立場に立って意見を補足する設問(問4)などがあり、〈例2〉では駐車場の賃貸に関する契約書を素材に、貸主と借主との間に生じるトラブルを解決するための具体的な方策を記す設問(問3)などが出題されている。記述量は比較的短字数(二〇字)の設問もあれば、「八〇字以上、一二〇字以内」という長字数の記述問題もあり、大問一題分としては、総計200字を超える、かなりのボリュームである。

では、実際に設問(〈例1〉の問1)を見てみると、親子の会話中に現われる「一石二鳥」という言葉の内容を説明させる問題が出題されている。公表された資料によると、ここでの【出題のねらい】は「複数のテクスト(情報)を読んだ上で、比喩表現の示す内容を、相互に関連付けて整理して説明すること」とあるが、実はこの設問は「つまり、一石二鳥を狙った訳さ」の「つまり」が前文を「要約」する働きであるという日本語のルールさえ知っていれば難なく解けてしまう問題である。問1だから、導入部分としてやさしめの問題を配したつもりかもしれないが、複数の情報を「相互に関連付け」るまでもない平易な問題である。

また、本問に限らず、今回の問題例に顕著な特徴として指摘できるのが、設問文に条件付けが多く示されている点である。
本問では、『会話文中の傍線部「一石二鳥」とは、この場合街並み保存地区が何によってどうなることを指すか』という文言が含まれているが、「街並み保存地区が何によってどうなることを指すか」という条件付けは、本来なら平易な問題を故意に問題を複雑化し、いたずらに難易度を上げようとしているように見える。ここはもっとシンプルに「会話文中の傍線部「一石二鳥」とは、どういうことか」と問えば、生徒はそこで自ら思考力を働かせるはずであり、逆にこのような条件付けをすることでかえって自然な思考力の発露が妨げられてしまうのではないかと考える。

それというのも、国語を苦手とする中位・下位層の生徒は、こういった条件付けに惑わされやすい。おそらく彼らは「何によってどうなる」という条件に当てはめようとして悪戦苦闘するであろう。だが、それがなければ、ストレートにその内容を考えるはずである。条件があってもなくても同じ答えになるというのであれば、条件付けはむしろ余計な配慮である。おそらく、これは採点の利便性を念頭に置いているのであろうが、優先すべきは採点の利便性ではなく、その設問が生徒の学力を適切に弁別できるかどうかという識別力にある。

問題作成においては、設問はシンプルであるべきであり、下手に条件を付すことで、生徒の思考力がスムーズに発揮できなくなるのであれば、その問題は見直す必要があろう。また、問題のレベルは、現状、言葉の字面だけを追いかけるだけの表面的な読解力さえあれば容易に正答できる問題であり、それで上位・中位・下位の学力差を弁別できるとも思えない。また、文書から得た「情報」をそのまま使うことで正答できるという点でも表現力を測る記述問題としては物足りなさが残る。

もう一つ、今回公表された問題例で特徴的なのは、素材文がいずれも比較的平易に読める「文書」や「会話文」、契約書など実用的な文書がもとになっている点である。今回公表された資料の中でも、素材選定の「工夫」の例として、「新聞記事・社説」「契約書や法令の条文」「取扱説明書」といった「実務的な文章」が挙がっているが、これから大学に進学する者たちにとって、あえてこれらの平易な文書を課す必然性がどこにあるのだろう。

「大学入学共通テスト(仮称)」は、日本語を母語として育った(であろう)生徒を対象とする試験である。であるならば、彼らには、現行のセンター試験の「国語」のような評論や小説といった良質の文章を素材にし、文章全体の主旨や論旨展開、筆者の主張を読み取ることのできる高度な読解力を求めるべきである。もちろん、記述式以外の客観式の問題でそういった文章を使用するのかもしれないが、記述式と客観式とで素材の質的な差が大きくなる。これを「国語」という教科の下に一括りにできるのか懸念される。

本テストは日常的に日本語で言語活動を行ってきた生徒を対象とするのだから、日常目にする新聞記事や会話文程度でよしとするのではなく、彼らが大学入学後に触れる各種の専門書や文献を読み解くだけの読解力を求めることが、「高大接続」を実現する上でも必要不可欠といえるのではなかろうか。まさか読みやすい文書や資料、図版を与えれば、人はより深く考えて表現するようになるというわけではあるまい。高いレベルでの表現力を習得するためにも、まずは文章を深く読み解くことが大事なのである。

テストのありようは、それぞれの文化、社会、また時代や環境によって異なる。したがって、今回のような問題例が出てきたことにはそれなりの理由があるのであろう。もちろん、これが選抜テストではなく学力診断テストだというなら異論も出まい。だが、これは個人の処遇に多大な影響を与える選抜テストである。ならば、学力調査テストやPISA型の問題傾向に合わせるより、まずはこれまで築き上げてきた日本のテスト文化を見直すべきではないか。すでにほとんどの国公立大では生徒の思考力・判断力・表現力を問う良質の記述問題が作られている。一部の私立大でも記述式の問題が出題されている。また、現行のセンター試験も学校教育の現場ではそれなりの評価を得ている。にもかかわらず、あえて新テストで記述問題を採用するというのであれば、ほんとうにそれが生徒個々の学力を測るにふさわしい問題であるのか、いや、そもそも大規模テストにおいて記述式の問題を出題する必要があるのか、改めて検分し直すべきではないだろうか。

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数学

公開されたモデル問題には、出題の方向性が明確に現れていた。どの問題も数学的内容や条件、設定の変更といった考慮しなければならない要素を複数含み、最終的な正解にたどり着くためにはそれらの情報を整理(あるいは図示)して、総合的に考える必要がある問題である。どれも公式を暗記しているだけでは解けない、思考力が問われる問題となるよう、よく考えられている。
また、問題の誘導に沿って解かざるを得ないセンター試験とは異なり、変数の取り方など、アプローチの自由度もある程度確保されている。もし、最終的な答えだけでなく導出の過程も書かせるような形式で、採点者が十分に時間をかけて個々の答案を評価できるのであれば、受験生が与えられた文章から情報をどれだけ読み取り、どのように考え、どこまで理解しているかを評価できる問題になっている。
しかし、マーク式であることと、発表された評価基準に途中点がないこともあり、出題にあたってはいささか配慮すべき点があるように思われた。

第一に「評価の観点」である。複数の情報を総合的に考慮することで導かれる「結果」を問うこれらの問題に正答できれば、確かに正答者にある程度の思考力や情報分析能力があることは担保される。
一方で、情報の整理と知識の活用ができず手もつけられない成績下位の生徒、途中まではわかるが最後までたどりつけない中位程度の生徒、十分思考力はあるがケアレスミスで最終的な解答を間違えた上位の生徒、こうした生徒はすべて無得点となり、弁別されない。特に、今回の例では1問あたりに含まれる考慮すべき要素が多く、十分に思考力がある上位の生徒でも些細なケアレスミスで誤答する可能性が高くなることが予想される。
その結果、中上位層において、数学的な思考力の差よりも、例えば「注意深さ」のような、純粋な数学的能力とは違う側面での差が強調されてしまう可能性が危惧される。平均的に1問あたりで要求される要素をもう少し減らし、上位の生徒向けには数学的に難度の高い問題を取り入れてはいかがだろうか。

第二は「問題の文章および構成」である。数学的に解釈することのできる現実の事象や状況を文章で説明することは難しく、不自然で複雑な文章になりやすい。「数学」の試験として、情報の読み取り能力や統合能力を測るのであれば、「難文の読解力のテスト」になってしまわないよう、文章や構成は、できるだけ自然で素直に読めるものにした方がよいのではないだろうか。
今回の問題例にも、不自然であったり、不必要に分かりづらい文章やレイアウトとなっている部分が散見された。
特にモデル問題例4では、自然な文章としては当然記述されるであろう、どこをどう考えたかといった「考えにいたるまでの描写」がないまま、【太郎さんの考え】や先生の教えとして唐突に数学的な記述が出てくるので、流れの悪い文面かつ問題構成になっている。「事象を数学化する力」を測るという目的があるのかもしれないが、それにしては数学的な記述が具体的で解釈の自由度がなく、中途半端でチグハグな印象がぬぐえない。
また、冒頭の記事「広場の大きさどうする?」に対し、問題は最後まで【太郎さんの考え】に終始する。「記事はきっかけで太郎さんが自分なりに課題を考え,解決する場面」を想定し、焦点化したのかもしれないが、この場面では、「銅像」が最もよく見える位置の考察をとおし、最終的には広場の大きさに言及してこそ数学的論拠に基づく「現実的な課題」の解決に繋がる。これでは問題を解いても、太郎さんがなにを目的としてこうした考察を行い、結論をどう活かしたいのか、一貫したストーリーが見えず、「数学のよさ」は伝わってこない。
こうした問題であれば、起結が妥当に収まるように見せる配慮も必要であろう。

第三は「問題の数値設定に関して」である。これは具体的には、モデル問題例4(iii)についてで、この問題の設定において、限られたスペースにフリーハンドでそれなりに正しい図を描くのは実に難しい。あまりに不正確な図は、かえって思考を妨げるばかりでなく、ミスリードすることにもなりかねない。また、図をできるだけ正確に描こうとするのは生徒の性であるので、描き直しを重ね、無駄に時間を費やしてしまう可能性もある。図を描いて考えさせる問題では、現実的な数値に即すよりも、フリーハンドでそれなりの図が描けるような設定とすることが望ましいのではないだろうか。

第四に「モデル問題例4(iii)の問題構造と評価について」である。この問題は、正攻法では小問①を解き、その答えを使って②、③を解く問題であり、図を描いて情報を丁寧に描きこめば、難度は決して高くない。ところが、第三の指摘で述べたように、図が描きにくく、小問①のモニタ試験での正答率は10%を切っている。それにもかかわらず、②、③の正答率は①よりも高く、多肢選択式であるために②、③を当て推量で正答できていることが如実に現れてしまった。
一方で選択枝に注目すると、例えば、小問①を間違えて6m、8m(正解は7m)としてしまった場合でも、②、③について正解と同じ手順で計算すると、それぞれ、②19°③5.7m、②15°③7.7mとなる。これらの答えは小問②、③の選択枝として含まれており、①を間違えても、②、③について、正しい考え方に基づいて選択枝を選ぶことができるような構造になっている。このような問題については、当て推量による正答の影響を避けるためにも、①~③の解答を一組として扱い、準正解の組合せにも得点を配し、総合的に評価する問題(多値型問題)と考えた方がよいのではないだろうか。

最後は「記述式の是非」である。モデル問題例では2~3行程度の記述で済む量であった。モデル問題例3〔2〕(4)では意味のとり難い問題文であることが、モデル問題例4(2)(i)では不慣れな問われ方が、それぞれ正答率が低かった一因とも思われる。論述式の解答の要約というとらえ方もできるが、問題の構造が単純で、答え方が定型化しやすい。「表現力」、「洞察力」、「構想力」、「数学的に説明する力」といった能力を測るのであれば、ある程度の記述量を課す問題にしてはいかがだろうか。
次の段階では、1問あたりの考慮すべき要素を適切な数に絞り込み、より純粋に数学的な思考力,情報読み取り能力、判断力を測れるような設定、文章に練りこまれた問題が出されることを期待したい。

さて、以上では今回のモデル問題例のような出題方針を是とし、どのような修正が考えられるかを論じた。
実のところ、こうした修正をすると、現行のセンター試験やマーク形式の私大入試の問題に近づく。センター試験で問えないようなレベルの高い思考力が必要とされる問題も、私大医学部の入試では当然のように扱われている。果たして端々に生じる無理を押し通してまで、モデル問題例のような出題が本当に必要なのであろうか?

「数学」は「論理」の学問である。例え、公式に当てはめれば解けるような問題であっても、「思考力」の不要な数学の問題はないともいえる。そもそも「数学」の授業で学ぶ、あるいは教えるもっとも重要なことは、シンプルな「論理的思考」そのものであり、実生活に無理に適用した数学化ではない。この年代で無理をしなくても、大学で学ぶ物理学や化学、実生活での金利の計算等、いずれ必要なときに自然な形で数学の応用に出会える。高等学校での履修に際しては、そのときに備えて、基礎的なことと数学的論理をしっかりと身に着けることが肝要なのではないだろうか。

こうした観点から現行の入試制度を見直すと、純粋に教科的な内容を問う現行のセンター試験や個別試験は良く出来ている。センター試験は、確かに解法を限定する誘導形式であるが、最終結果が全てのモデル問題例とは異なり、特定の解法パターンを追いかけることで、生徒がどこまで理解できているかを測ることができる。また、「表現力」を要求するのであれば、「事象の数式化」や「場合分け」が出来るかといった狭い意味ではなく、ある程度の記述量を課し、「数式の羅列」に終始しない「文章を交えて論理的に答案を作成する」能力をみる必要があろう。こうした能力はモデル問題例の端的な問い方からは決して測れず、結局、現行の個別入試のようなしっかりとした論述試験を行わなければならない。採点の手間などというおおよそ「数学」とは全く関係のない理由で制限をかけて、モデル問題例で要求されている程度の条件付記述式問題をあえて選抜試験で問うことははなはだ疑問である。
フィギュアスケートの採点のように、技術点とは別に「表現力」の項目を定期試験の採点基準に加える改革をする方が、よほど生徒に「表現力」の必要性を感じさせるのではないだろうか。

高等学校で履修する自然科学は、その本質的な部分を理解しやすいように、「現実」に存在する枝葉を落としている(モデル化している)。指導員がフォローしながら現実に即して考えさせるのは大いに結構だが、中途半端に現実に即したような問題を選抜試験で出す意味はないと考える。むしろ、モデル問題例のような問題を解けることが大学入学の前提となるようになると、高等学校数学の導入である「数学I」の学習過程においてさえ、数学の「よさ」よりも、数学の「面倒臭さ」が強調され、「数学嫌い」が増えることが危惧される。
入試で思考力を測る以前に、数学離れ、理系離れが促進されては本末転倒である。

数学に関しては、センター試験、国公立私立大学の個別入試の問題は良く出来ており、必要な大学は個別入試を論述式で行っている現状で、何の問題もないと思われる。問題量に対して試験時間が短い傾向はあるが、量と時間のバランスを見直す程度で、思考力を重視した改革の流れに進むのではないだろうか。
徒に「現実の事象と数学」を重視した結果、「自然で美しい数学」の問題よりも、読み難い(不自然な、煩雑な、複雑怪奇な……)文章や資料に基づく問題や、奇をてらった問題が主流となってしまわないことを切に願う次第である。

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英語

後日掲載いたします。

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野口裕之ARFによるコメント

後日掲載いたします。

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