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エレベーター

 わたしは毎朝、会社のビルの階段を使って6階のフロアまで上がってきます。6階なので、着いたときには苦しくて息が上がります。ふだん、取り立てて運動などしないわたしですが、これだけは今のところ続けています。
 ただ、そんなふうに階段をのぼるのは朝だけです。昼休みに外に出て職場に戻るときは、午前中に半分のエネルギーを使い果たしているわけですから、エレベーターを使います。

 最近エレベーターに乗って感じることがあります。たとえばわたしが一番先に乗り込んだとき、階数表示のボタンの前に立って、あとから乗る人に、何階で下りるか尋ねます。後から乗ってくる人が何階で降りるかを確認し、その人の代わりにボタンを押すことは最初に乗った人間の役割だと考えているからです。

 ところが最近は、わたしが後から乗る人に階数を訊いても、それに返事をせず、じぶんで下りる階のボタンを押す人が多く見られます。
 わたしとしたら、ただ何階で下りるかを言ってくれればいいだけなんだけどな……これっていったいなんだろうな?って思うんです。

 げすの勘ぐりをすると、もしかしたら、何階押してくださいって頼んだら、そいつに借りができるとでも思っているのかなとか、いやいや、そうじゃなく、じぶんのことなんかで他人を煩わせたくないって思っているのかもって、好意的に考えたりもします。
 もちろん、わたし自身、じぶんがやっていることはいいことなんだから、みんなそれに従うべきだなんて思ってるわけではないんです。じぶんでもなんだか古臭いことを言ってるなっていう自覚もあるんです。

 でも、最近思うんですけど、そういったなにげない小さな営みのなかで、誰かになにかをしてもらう、あるいは人になにかを頼んで、それを引き受ける人がいるというのは、私たちの日常でふつうに体験していたことだと思うんです。たとえば、じぶんに用事があって、子どもを近所の人に預けるとか、そういうことです。

 でも、今はそれがなんとなく憚られる。それはなぜなんだろうってことです。

 いや、そうは言うけど、なにか大変なことがあったら、みんな協力し合ってるじゃないか、震災のときだってそうだったじゃないか、という人だっているかもしれません。それはそうです。それを否定するわけではないんです。でも、そういった非常時だけではなく、日常のささやかな営みこそが大切ではないかとわたしは考えているんです。

 ところで、エレベーターに乗ること自体が嫌いな人もいます。そういう人は、もしかすると、そういったやりとりを見知らぬ人と交わすことを拒否したい、社会から離れたい、距離を置きたい、煩わしいことから逃れたいと思っているのかもしれません。それならば、わたしも共感します。いちいち声をかけて、ちょっとした行動を起こすことが面倒に感じられることは、わたしだってあります。

 ただ、一方で見知らぬ人との間で交わされる日常の営みが、もっと寛大で鷹揚な心持ちで行われてもいいのではないかと思うんです。もっと他人を信頼していいし、人から頼られたらそれに応える、そんな持ちつ持たれつの関係こそが、頑なになりがちな人の心を解きほぐし、誰もが緩やかにつながる社会へとつながるのではないかとわたしは思っています。

 

(TK)